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2025/02/25

第18回霊的講話「受けるよりは与える方が幸いである」(2/20)

卒業記念のチョークアート

【卒業式も間近、昇降口前では恒例のチョークアートが完成しました。上手ですねぇ…】

2025.2.20第18回霊的講話「受けるよりは与える方が幸いである」

 生徒の皆さん、おはようございます。先週はずいぶん暖かくなったと思いましたが、この数日はまた真冬の寒さが戻ってきた様です。三寒四温(さんかんしおん)という言葉がぴったりの今日この頃ですね。はて、三寒四温という言葉、漢字で書けますか?

 さて、約3年前、私がこの学校に来て印象に残ったことがあります。それは、この学校では、聖ジュリーの日、チャイルドファンドの募金そしてクリスマスの献金や献品など、障害のある人や貧しい境遇・苦しい状況にある人への支援活動や訪問などが、他の学校と比べても盛んで、生徒も積極的に参加しているということです。それには、皆さんのように思いやりのある生徒がこの学校に集まっていることもあるでしょうし、創立者の聖ジュリー・ビリアートの精神、Spritがこの学校にまで受け継がれていることもあるのではないかと私は思います。

 今日は、このことにも関連したパウロの言葉を紹介したいと思います。
 前回もお話ししたように、イエス様とその救いを宣べ伝える人となったパウロは、イスラエルから今のシリア、トルコそしてギリシアなどの地中海沿岸の国々を巡って伝道をしました。もちろん当時は自動車も電車もありませんから、そのほとんどは徒歩での旅行でした。何百キロも歩くのですから、今から考えれば大変な旅行ですね。パウロはそのような旅行を3回も行いましたが、その旅の途中で、反対する人々に殺されかけたり、牢獄に閉じ込められたりする経験もしています。

 さて、今日お読みする聖書の箇所は、その3回目の旅行を終え、イスラエルの都エルサレムに帰る途中、エフェソという街の信者たちに語りかけているパウロの言葉です。このエフェソの信者達の教会は、かって、パウロが何年もかけて育て上げた、パウロにとって思いで深い教会でした。それでは、新約聖書の255ページ、使徒言行録20章の31節から35節までをお読みします。255ページ上の段、6行目の途中、31という番号の書いてあるところからです。

「だから、わたし(パウロ)が三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 この箇所から、二つのことをお話ししたいと思います。
 一つ目は、聖書の言葉に対するパウロの信頼です。実は、パウロは、自分がこの伝道旅行の後、エルサレムにおいて捕らえられること、そして、自分はこのエフェソの教会の信者たちに二度と会うことはできないことを知っていました。ここでパウロは、「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」と言っています。当時はまだ新約聖書はありませんから、この「恵みの言葉」とは旧約聖書の言葉、あるいはその当時言い伝えられていたイエス様の言葉を示しています。パウロは、たとえ自分がいなくなっても、この聖書の言葉が、聞く人々に恵みを与え、神様に用いられる人に育て上げることができると信じ、期待していたのです。私も今、同じような期待を込めて、生徒の皆さんに聖書の言葉を紹介しています。
 二つ目は、これが今日のお話の中心なのですが、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の言葉についてです。イエス様御自身も人々に大切な教えを与え、いやしや解放を与え、そして、十字架の上で御自分の命さえも与えられた方でした。パウロもまた、多くの人々にイエス様の救いを伝え、祝福と恵みを与えた人でした。ここでパウロは「わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いた」と言っています。パウロは、他の信者に経済的な負担をかけないように、自分で仕事をして自分の生活の糧を得ながら、伝道の働きに取り組んでいました。パウロの働きは、決してお金を儲けたり、名誉や賞賛を受けるためではなく、むしろ自分がもっているもの全てを人々に与えるための働きだったのです。
 「受けるより与える方が幸いである」とありますが、もちろん、受けることが悪いわけではありません。むしろ、まず、自分自身が神様から、そして周囲の人々から多くのものを受けている、与えられてることを知り、感謝することが大切だと思います。しかし、多くを与えられて豊かになった人のすべてが、必ずしも他の人に与えることに心を留めているわけではありません。また、貧しくても、与える喜びを知っている人もいます。

 この「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉を聞くと、私はマザーテレサがされた話を思い出します。
 あるとき、マザーテレサは、ある人から「8人の子どものいる貧しい女性がいて、最近は何も食べていない様子です。彼女たちを助けてあげてください」と頼まれます。早速、マザーテレサはお米をもって、その貧しい女性の家に行きました。家に入ると、確かにその女性も子供たちも、長い間、飢えに苦しんでいたのが分かりました。その女性はそのお米を受け取ると、それを二つに分け、その一方を器に入れて家を出て行ったのです。やがて帰ってきた女性に、マザーテレサは「どこに行っていたのですか」と尋ねました。すると、その女性は「あの人たちもお腹をすかしているのです」と答えました。「あの人たち」とは隣の家の、やはり貧しい家族のことであり、その女性はその隣の家族に自分のお米を分けてあげたのです。その時の女性の顔は、人と分かち合う喜びに輝いていたそうです。
 マザーテレサはこのように言っています。「この母親は彼女の苦しみの中で、悲しみの中で、肉体的なひどい苦痛の中で、なお、隣の家族も飢えているということを知っていたのです。私たちは、周りの人たちが愛を必要としていることを知っているでしょうか? この家族が示してくれた手本のように、神は、決して私たちのことを忘れたりなさいません。そして、そこにはいつでもあなたや私にできることが必ずあるのです。」

 私たちの中には「『受けるよりは与える方が幸いである』と言ったって、私には何もあげるものがない」と思う人もいるかもしれません。でも、私たちが他の人に与えることができるのは、お金やものだけではありません。相手の人に対する慰めの言葉、少しの微笑みや明るいあいさつ、ちょっとした心遣いでも、相手に与えることのできる人は幸いなのだと思います。
 皆さんは、与える幸い、大切なものを分かち合う喜びを経験したことはありますか? 小さな経験でもいいので、思い出してくだされば嬉しいです。
 それでは、ともに主の祈りを祈って、今日の霊的講話を終わりましょう。