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2025/02/18

第17回霊的講話「目標めざして」(2/13)

雪景色

【先週は倉敷では珍しく雪が(薄っすら、ですが)積もりましたが、次の週は春の陽気だそうです。これからしばらくは三寒四温の日々が続くようです。
 今年度の霊的講話もあと4回になりました。今回からはペトロやパウロの言葉を紹介したいと思います。
 ペトロは元漁師、パウロは元迫害者ですが、二人とも、主イエスにお会いして人生が180度変わり、生涯をかけてイエス様とその救いを伝える使徒となりました。新約聖書の中にはペトロやパウロの書簡が多く記されていて、彼らの信仰と共に生き様も伝わってきます。】

 生徒の皆さん、おはようございます。厳しい寒さも少し緩んだようですが、まだまだ油断は禁物、健康には十分注意してください。今年は、インフルエンザと新型コロナが同時流行していますから、特に注意が必要ですね。
 この霊的講話では、これまでイエス様のたとえ話を紹介してきました。今日からしばらくの間は、イエス様の弟子であったパウロやペトロの言葉を紹介したいと思います。

 さて、この学校に来てから、私は生徒から「校長先生の趣味は何ですか?」とよく聞かれます。私は、少し考えてから、「趣味は読書かなぁ、それから、登山、山登りは好きです」と答えるようにしています。中学・高校では登山部に入り、合宿では中国地方や四国地方の山に登っていました。また、教員になって二つ目の高校では山岳部の顧問になり、その山岳部の夏山合宿では生徒とともに北アルプス遠征に出掛けていました。

 特に、一番最初の北アルプス遠征は思い出に残っています。その遠征では北アルプスの表銀座という人気のコースを選び、3泊4日の日程で最終目標は槍ヶ岳に設定しました。初日に長野県安曇野の中房温泉の登山口から入り、尾根伝いに燕岳、大天井岳、西岳という標高2700mから2900mの山々を経て、最後に標高3180mの槍ヶ岳に登るというコースです。
 一日目は、ふもとの登山口から一気に標高差1,300mほどを4時間ほどかけて登るというきつい行程でした。登山口からしばらくは森の中の山道ですから、周りの景色はあまり見えず、険しい山道を喘ぎながら登ります。やがて、稜線(尾根)にたどりつくと、一気に視界が広がり、北アルプスの雄大な景色が広がりました。しかも、はるか向こうに、今回の遠征の目標である槍ヶ岳の特徴ある尖った山頂が見えるではありませんか!
 「あの山を目指すんだ!」その後も苦しい道のりは続きましたが、生徒と先生が互いに励まし合いながら、また、次第に近づいてくる槍ヶ岳の姿に励まされながら進み、三日目に無事に槍ヶ岳登頂を果たすことができました。
 その頃の私はまだ二十代で若かったのですが、その北アルプス遠征で、人間にとっての「目標の大切さ」を学んだように思います。どんなに苦しい道のりでも、その目的と目標がはっきりしていれば、人間は精神的にも支えられ、もっている力を存分に発揮することができます。
 生徒の皆さんも、学習に、研究に、そして部活動に頑張っていますね。その努力、頑張りの目標をはっきりと捉え、いつも意識していますか?

 ここで、今日の聖書の箇所をお読みしたいと思います。新約聖書のフィリピの信徒への手紙3章12節から14節、新約聖書の365ページです。
 このフィリピの信徒への手紙は、紀元60年頃、イエス様の弟子であり、イエス様の救いを伝える使徒となったパウロが、ローマの牢獄の中から、ギリシアのフィリピという都市にいたクリスチャンに宛てて書いた手紙です。
 では、フィリピの信徒への手紙3章12節から14節までをお読みします。

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 前にもお話ししましたが、もともとは熱心なファイリサイ派のユダヤ人だったパウロは、以前はイエス様を信じる人々を厳しく取り締まり、迫害していた人物でした。しかし、復活されたイエス様に出会うことによって、パウロの人生は180度変えられ、イエス様とその救いを多くの国々の人々に伝えるとともに、新約聖書の中に収められている多くの手紙を書き記すという大きな働きをしました。そして最後に、皇帝ネロの時代に、ローマにおいて殉教の死を遂げたと言われています。

 この聖書の箇所で、パウロは「(私が)なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神が……お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と言っています。パウロの生涯は、目標を目指して一心に走る人生だったのです。では、パウロの目標とは何だったのでしょうか。それは、イエス様から与えられた任務を果たすことであり、その任務とは、すべての人々にイエス様の救いを伝えることでした。
 この数年後、処刑される直前のパウロの言葉も新約聖書には記されています。そこには、「(わたしが)世を去るときが近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」とあります。これから殉教の死を迎えるパウロには、自分は目標を達成し、神様から与えられた任務を果たしたという感謝と満足がありました。そして神様もきっと「パウロ、よくやりました、Well done、あなたは私の忠実な僕です」と、パウロを迎え入れられたことでしょう。

 さて、登山の話に戻ります。少しありふれたたとえかもしれませんが、私は、登山は人生と同じだと思います。登山は目標がはっきりしていなければならないし、目標を見失った登山はとても危険です。また、たとえ疲れていても、目標をはっきり意識していれば、再び力は湧いてくるし、どのように目標にたどり着こうかと知恵を使って考えることもできます。
 でも、同時に、登山では、目標だけではなく、足元にも注意する必要があります。遠くの目標だけを見ていると、足元の石や木の根っこにつまずき、大けがをするかもしれません。目標である山の頂を見上げつつ、同時に足元にも注意し、しっかりと大地を踏みしめながら一歩一歩登っていくのが登山です。私たちの人生においても、遠くに見える自分の目標を常に確認しながら、同時に、毎日の歩み、例えば、日々の勉強や様々な活動もきちんと進めていくことも大切かな、と私は思います。

 でも、皆さんの中には「私はまだ自分の目標がはっきりしないし、見えてもこない」と言う人もいるかもしれません。北アルプスなどで登山を開始したときも、最初は森の中で周囲が見えず、自分がどこにいるのか、どれぐらい登ってきたのか実感できない時もあります。でも、焦らないで嘆かないで、今の歩みを一歩一歩と続けていけば、やがて尾根に到達し、周囲の景色も見えてきます。そして、自分が目標とするべき山の頂も見えてくるのだと私は思います。
 皆さんはどうですか? 何か、今は遠くにあるけど、ぜひ到達したい目標がありますか? あるいは、「目標を目指してひたすら走」ったパウロの人生をどのように思われますか?
 では、最後に「主の祈り」をともに祈り、今日の霊的講話を終わりたいと思います。