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2024/11/15

第14回霊的講話「イエス様が語られたたとえ話⑩」(10/24)

紅葉と講義棟

【少し遅くなりましたが、10月24日の第14回霊的講話を御紹介します。今回は有名な「新しいぶどう酒と新しい革袋」のお話です。準備をしているうちに、「これって、私も要注意だなぁ…」と考えこみました。】

 皆さん、おはようございます。
 10月も下旬になって、朝晩はようやく涼しくしのぎやすい気候になりました。でも、日中はまだ気温は高めで、まだまだ秋が深まったという様子ではないですね。
 さて、秋の味覚と言えば、いろいろな果物、とくにぶどうです。聖書の中にも、ぶどうやぶどう酒に関するお話がたくさん出てきます。特に、聖書が書かれた頃のユダヤの地方は、土地は乾燥しているし、水の質もよくなかったので、人々は水の代わりにぶどう酒をよく飲んでいました。ぶどう酒は身近な飲み物だったようです。

 今日は、マタイによる福音書から、有名な「新しいぶどう酒を新しい革袋に」というたとえ話を紹介します。新約聖書の15ページを開いてください。マタイによる福音書の9章14節から17節までです。新約聖書15ページの下の段ですね。
 「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。
 イエスは言われた。『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。』」

 最初に出てくるヨハネの弟子というのは、イエス様に洗礼を授けた預言者ヨハネという人の弟子のことです。また、ファリサイ派の人々については、これまでよく出てきましたね。この人たちは、断食、つまり何日も食べ物を食べないで祈りに専念するなどの宗教的な儀式や戒律には熱心だったようです。
 この人たちからの「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」という批判に対して、まずイエス様は、「私の弟子たちは、花婿つまりイエス様が今ここに来られているので、そのことを喜んでいる。しかし、私が亡くなるときには、私の弟子たちも悲しみ、断食をすることになる」と、御自分の死を予告しながら答えられます。
 そして、次に、今日のメインテーマである「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなさい」という有名な言葉を語っておられます。

 さて、ぶどう酒というのは、まず、ぶどうを押し潰してしぼり汁をとり、これに酵母菌という微生物を加えて発酵させることによって出来上がります。この発酵では、酵母菌によって、しぼり汁の中の糖分が分解されて、アルコールと二酸化炭素が生じます。新しいぶどう酒、つまり酵母菌が元気で発酵が続いている間は、ぶどう酒からまだ二酸化炭素が盛んに発生しています。ぶどう酒から二酸化炭素の泡がプクプクと出てくるのですね。当時の人々はぶどう酒を羊の皮でできた革袋に入れて保存していました。この革袋が新しい場合は、その革は柔軟で伸縮性がありますから、ぶどう酒から二酸化炭素が発生して膨れても、革袋も一緒に膨れて中身を保つことができます。しかし、革袋が古くなると、革袋の革は固く伸縮性もなくなります。このような古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、革袋は二酸化炭素による膨張に耐えきれず、革が破れてぶどう酒も流れ出てしまいます。ですから「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなさい」という言葉があるわけです。

 しかし、もちろん、イエス様は、単にぶどう酒の保管方法を私たちに教えておられるのではありません。ファリサイ派の人々をはじめ、当時の多くの人々は、先ほどの断食をはじめ、ユダヤ教の様々な戒律を守ることによって救われると考えていました。そして、自分たちはその戒律をきちんと守っているから大丈夫、とも思っていたでしょう。そのような彼らにとって、「私たち人間は戒律を守ることによっては救われない、私たちの罪のために死なれたイエス・キリストを信じることによって救われる」という教え(この教えを聖書では「福音」と言っています)は到底考えられない、受け入れることができない教えでした。ファリサイ派の人々をはじめ、当時の多くの人々の心は古い革袋のままだったのです。「イエス・キリストによる救い」という新しく命のあるぶどう酒を入れるためには、神様に対して開かれた心、神様が教えてくださる救いを理解し受け入れたいという心、つまり柔軟で新しい革袋が必要だったのです。

 私は、この「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という言葉は、私たちの人生のいろいろな場面にあてはまるのではないかと思います。神様が私たちに真実を教えてくださろうとしているのに、あるいは新しい考え方、新しい可能性が私たちの心の中に生み出されようとしているのに、これまでの自分の経験あるいは自分自身の先入観や固定観念という古い革袋が邪魔をしているということはないでしょうか? 

 以前もお話をしたように、高校時代の私は「知性にも理性にも限界がある人間には、神の存在は証明も確信もできないはずだ」とドライに割り切って考えていました。しかし、ある時「もし人格的な神が存在するなら、私が求めれば、その神の方から応答があるのではないか。神が存在するのか、存在しないのか、真実を知りたい。そのためには、これまでの自分の考えを捨ててもいい」と考え始めました。今から考えれば、少し新しい革袋に切り替わった時だったのだと思います。

 私は思います。生徒の皆さんの心にも新しいぶどう酒があるのではないでしょうか。皆さんの内側では、新しいぶどう酒がふつふつと泡を、様々な新しい考え方やアイデア、夢や希望という泡をわき上がらせているのではないでしょうか。でも、その新しいぶどう酒を、古い革袋、つまり「考えたこともないし、考えられないから」とか「どうせできないから」あるいは「これまでも、これでやってきたから、まぁ、いいや」という古い革袋に、自分自身で押し込めてはいないでしょうか。
 私たちの考え方や捉え方を変えるだけで、私たちは新しい革袋に替わることができる、私はそのように思います。皆さんはどのように思われますか?
  それでは、ともに主の祈りを祈って、今日の霊的講話を終わりたいと思います。