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2024/10/11

第12回霊的講話「イエス様が語られたたとえ話⑧」(10/10)

聖堂と秋空そして階段アート

【第12回霊的講話の内容を御紹介します。今回は「裁いてはならない」がテーマです。人が互いに批判し合うことにって、生徒もいろいろな感想を書いてくれました】

 皆さん、おはようございます。猛暑の夏もやっと過ぎ去り、急に秋らしくなってきました。学習も、部活動も、そして様々な活動も絶好調で取り組むことのできる季節になりました。
 今週、高校2年生の皆さんは、北海道、沖縄、フィリピン、そして屋久島の4つのコースに分かれ研修旅行に出掛けています。また、中学2年生の皆さんは、今日と明日は林間学校で、今日は県北の蒜山高原に行っています。

 さて、この霊的講話では、イエス様が語られたたとえ話を紹介しています。これまでは、放蕩息子の帰宅や善きサマリア人のように、物語の様になったたとえ話を紹介しましたが、イエス様が語られたたとえ話の中には、ある大切な事柄を他の物や動植物を用いて分かりやすく表現したもの、国語的には「比喩」といわれる方法で語られた教えもあります。その中には、その言葉がもともとは聖書の中にあるとは知られていないもの、例えば「狭き門」とか「一粒の麦」などがあります。これからは、そのようなお話も紹介したいと思います。

 ところで、最近は、有名なタレントやスポーツ選手などに対するSNSによる誹謗中傷が社会的な問題になっています。SNSという匿名性が高い、つまり発信者が誰か分からない状況で一方的に他の人を批判し非難することが流行ってしまう、しかもそれによって悩み苦しみ、時に死を選ぶ人もいるとは、とても辛く悲しい気持ちがします。この風潮の中には、他の人を批判して優越感に浸る、あるいは自分の欲求不満を解消しようとする、人間の最も醜い部分が出ている様な気がします。しかし、自分自身を振り返ると、私も、苦しい時や嫌な出来事があった時には、それを他の人のせいにして、批判し非難しようとする思いがわき上がってくることに気付くことがあります。

 そこで、今日は「裁いてはならない」というイエス様が語られた言葉を読んでみたいと思います。新約聖書の11ページを開いてください。マタイによる福音書7章1節から6節までをお読みします。 

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 ここでイエス様は「裁いてはならない」と言われています。この「裁く」という言葉には「裁判で判決を下す」つまり、他の人を裁いて罪に定めるという意味もあるようです。もちろん、イエス様はここで「様々な物事や人々に対して、意見や批判を一切してはならない」と言われたのではありません。イエス様ご自身も、偽善的で頑なな律法学者やファリサイ派の人々を厳しく批判されることがありました。また、新約聖書の中の多くの手紙を記したパウロやペトロも、その手紙の中で、いろいろな教会や信者の罪や問題を厳しく批判し、悔い改めることを勧めたりしています。社会や政治あるいは様々な人々が抱えている課題や問題を正しく評価し、必要があれば、その中の過ちや不正を指摘するのは大切なことです。また、裁判所が様々な証拠や証言に基づいて、正しく裁判を行い、判決を下すことは、現代社会に必要です。さらに、科学、自然科学や社会科学の世界では、先にあった学説や論文を批判的に検討し、それが真実かどうかを調べ、間違いがあればきちんと指摘することはとても大切であり、科学が正しく発展するための重要な要素となっています。

 しかし、ここでイエス様が戒められたのは、そのような正しく適切な評価に基づく判断や批判ではないようです。3節以降で、イエス様は、「裁くこと」とはどういう状態かを、目の中のおが屑(小さな木の破片)や丸太(大きな材木)というたとえ・比喩で語っておられます。目の中におが屑が入るだけでも痛そうなのに、目の中に丸太があるとはありえない様なすごい表現ですね。「目の中に丸太があるのに云々」とは、自分の目には丸太、つまり自分自身にも大きな問題があるのに、その問題には気付かずに、相手に対して「だめだなぁ、お前の目にはおが屑が入っているぞ、問題があるぞ。俺が取ってやる」と得意げに言っている状態、これが、イエス様の言われた「裁く」ということです。まず、自分も問題や正すべき事柄があることに気付き、自分のその問題を取り除かなければ、私たちは正しく判断することはできず、正しい意見を語ったり、相手に適切なアドバイスをすることもできない、とイエス様は語っておられる。私はそのように思います。

 では、この目の中の丸太とは何でしょうか。それには、相手の人に対する先入観や偏見があるかもしれません。あるいは、相手の考えや状態あるいは周囲の状況を正しく理解していないこともあるかもしれません。例えば、私の場合は教員生活が長かったこともあり、どうも一昔前の考え方や固定観念で学校あるいは生徒や先生方を見てしまう傾向があります。そして、現在必要とされている教育をよく理解しないままで、学校や先生方に対して批判的な思いを持ちやすいことがあります。これも私にとっては除かなければならない丸太の一つですね。しかし、私は、その丸太の中で最大のものは、愛がない、「愛の欠如」ではないかと思っています。私は、意見を言いたい、批判したいと思っている相手の人を本当に愛しているでしょうか。私は、相手の人がその問題を克服することを本当に期待しているでしょうか。そして、その人が活躍し、人々の賞賛や神様の祝福を受けることを願うことができるでしょうか。パウロは、コリント信徒への手紙の中で、教会内で問題を起こした人に対する対応を助言をした後、「その人へのあなたがたの愛を確認することを勧めます」と述べています。「その人に対するあなたの愛を確認する」これがとても大切だと思います。

 少し前に戻りますが、2節を見てください。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」イエス様はここで一つの注意をされています。それは、「あなたが他の人を裁いているのと同じ基準であなた自身も裁かれることを覚悟しておきなさい」という意味でしょう。私たちは他の人を批判する時、自分の問題や足りないところを棚に上げて批判している場合が多いのです。そして、他の人の批判ばかりをしている人は、やがて他の人々から批判されるようになります。それは人間社会における厳粛な事実です。そして、以前、「ファイサイ派の人と徴税人の祈り」のたとえ話にあったように、他の人と比較して自分は正しいと考え、優越感に浸りながら他の人を裁いている人に対しては、やがて神御自身がその人を裁かれる時が来る、イエス様はそのように警告されているのではないかと思います。私たちも注意した方がよいようですね。

 6節にも有名なたとえ・比喩が語られていますが、この言葉については、いつか機会があればお話ししたいと思います。それでは、最後に【主の祈り】をともに祈りましょう。