校長ブログ Blog
第10回霊的講話「イエス様が語られたたとえ話⑥」(9/5)
生徒の皆さん、お早うございます。先週の霊的講話は清心祭や休校の連絡でお休みにさせていただき、今日は7週間ぶり、第10回目の霊的講話になります。
生徒の皆さんも、連日の清心祭の準備で忙しく、今も心の中がザワザワしている人もいるかもしれません。でも、この霊的講話の時間では、一度、大きく深呼吸をして、心を静めて耳を傾けてくださいね。
さて、この霊的講話では今、イエス様が語られたたとえ話をいくつか紹介しています。
突然ですが、皆さんは、自分に対するほかの人の意見や評価を気にする方ですか? あるいは、ほかの人からの意見や評価なんかはどうでもよくて、我が道をゆく人ですか? あるいは、「私って、優越感や劣等感に振り回されやすいよなぁ」と思うことがありますか?
そんなことを考えながら、今日はルカによる福音書に記されている短いたとえ話を御一緒に読みたいと思います。新約聖書の144ページを開いてください。ルカによる福音書18章9節から14節までです。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(今で言えば、不倫などといわれることでしょうか)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』」
この話に登場するファリサイ派あるいは徴税人については、これまでも何回か説明していますね。ファイリサイ派というのは当時のユダヤ教で指導的な立場にあった宗教家のグループでした。また、徴税人というのは、ユダヤ人でありながら、支配者であるローマ帝国のために税金を集める仕事をしていたため、ユダヤの人々から嫌われていた人々でした。
また、終わりの方の14節には「義とされる」という言葉があります。「義とされる」とは、神様の前に正しいとされる、神様に受け入れられるという意味だと考えてください。
結論から言えば、この二人のうち、神様に受け入れられたのは、ファリサイ派の人ではなく、徴税人の方だとイエス様は言われています。このファリサイ派の人は「私は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、週に二度断食し、全収入の十分の一も献げている」と言っています。彼は、自分は旧約聖書の教えに基づいた正しい生き方をしていると考えていました。では、なぜこのファリサイ派の人の祈りは神様に受け入れられない、評価してもらえない、とイエス様は言われたのでしょうか? 皆さんはどう思いますか?
私は、その理由として二つのことを考えます。一つ目の理由は、このファリサイ派の人は、神様の存在は信じていても、神様に対する畏れがなかったからです。「神を畏れる」とは、「神様を怖がる」「神様に対して対して恐怖心を抱く」という意味ではありません。「神を畏れる」とは、神様は自分の上に立つ方で私が従うべき方であり、しかも、私のすべて、私の心の内のすべても御存知の方だと知っていることです。例えば、このファリサイ派の人は「自分は姦通を犯す者ではない」と思っていました。しかし、イエス様は、聖書の他の箇所で「誰でも、心の中で性的な欲望を抱きながら女性(異性)を見る者は、すでに心の中で姦淫の罪を犯している」と言われました。神様は私たちの心の内側の、隠れた考えや思い、動機までをも知っておられる方、見通しておられる方です。この神様に対して、私たちは「自分は全く罪のない、清く正しい人間だ」と主張することができるでしょうか。しかし、このファリサイ派の人は、平気で自分の品行方正さ、信仰深さを誇っています。彼は神の存在は信じていたでしょうが、神に対する正しい畏れはなかった、と私は思います。
もう一つの理由は、彼は、神様からの評価よりも人間からの評価、そして他の人のとの比較を大切にしていたということがあります。言い換えれば、彼は神を畏れないで人を恐れていたのです。彼が「私の周りの民衆と比較すれば、私は学問でも宗教家としても優れている。特にこの徴税人に比較すれば、私は遥かに優れた人間だ」と思っている間は、その優越感に浸りながら彼は安心することができました。しかし、実は、彼のようなファリサイ派の人々の多くは、イエス様が公の場所に現れ、人々を教え始められた時、恐れと不安を感じました。イエス様の教えには権威があり、イエス様の言葉や行動には人々への愛と慈しみがあふれていました。そのため、多くの民衆はイエス様を慕い、イエス様の元に集まってきました。ファリサイ派の人々は、そのようなイエス様に劣等感を抱き、恐れを感じ、そして最後にはイエス様を殺してしまおうとまで考えたのです。
私たち人間が抱く優越感と劣等感は表裏一体、同じものの表と裏に過ぎないのです。私たちは、神様を知らないとき、あるいは神様を神として畏れないとき、自分と他の人を比較することによって、自分の存在価値を確認したい、味わいたいと思います。そして、優越感と劣等感の間を振り子のように揺れ動いているのです。
でも、私はこファリサイ派の人を軽蔑することはできません。と言うのは、私も若い頃から、学校の成績や運動神経の良し悪し、あるいは仕事ができるかどうかなどを他の人と比べてては、密かな優越感で安心したり、重苦しい劣等感で落ち込んだりする(まぁ、この劣等感の方が多かったのですが)そのような人間だったからです。
さて、もう一人の徴税人はどうでしょうか。彼は先ほどのファリサイ派の人とは対照的です。彼は「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈ります。彼には周囲の人々は目に入らず、他の人と自分を比較して「俺も罪深いけど、まぁ、あいつよりはまだマシだ」とも思っていませんでした。ただ、「神様の前に自分はどのような人間か」「神様は私をどのように評価しておられるか」ということだけを考えていました。そして、もし自分に罪や過ちがあったとしても、その罪を神様の前に告白するなら、神様は豊かに赦してくださることも知っていたのだと思います。イエス様は、この徴税人が神様に正しいと認められ、受け入れられていると言われています。
私たちが自分自身をどのように見るか、あるいは周囲の人が自分をどのように見ているかを考えることが大切な時もあります。でも、他の人との比較によって、私の価値が決まるわけではありません。大切なのは、神様が私をどのように見ておられるかを知ることです。神様が「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と言ってくださるのであれば、私はそれで十分だと思っています。皆さんは、どのように思われますか?