校長ブログ Blog
タラントンのたとえ
二子に移転してからの伝統に、週一度行われる朝の霊的講話があります。主に聖書にもとずいた校長講話です。今週のものをのせました。「タラントンのたとえ」はイエス様が語られたたとえ話の中でも有名なものです。今年度から進路指導部だよりのタイトルにもなっていることもあって取り上げました。冒頭では毎回静かに短い黙想をします。 最後には一緒にお祈りします。
おはようございます。一日の初めに当たり、心と体の姿勢を整えましょう。軽く目を閉じて、自分の体を意識します。ゆったりと、でも椅子にもたれないで、足をそろえてまっすぐに座りましょう。そして、出来るだけゆっくりと呼吸しましょう。ありのままの自分で、しばらく静かに座りましょう。(黙想)
今日は、「タラントンのたとえ」を取り上げたいと思います。タラントンというのは、古代ギリシャ・ローマなどのお金の単位です。英語ではタレントと言って、才能やその才能を持っている人を指しています。このたとえ話は福音書ではマタイとルカにあります。たとえ話は、イエス様が、私たちに何かを伝えようとしたお話です。そのメッセージは何かと考えながら読んでみましょう。今日の聖書は、マタイ25章14節から30節 です。
このたとえ話では、5タラントン預かった人はさらに5タラントン増やして大いに褒められ、2タラントン預かった人はさらに2タラントン増やして褒められます。ところが1タラントン預かった人は地面に埋めてしまい、主人に叱られて1タラントンまで取り上げられてしまうというお話です。そして主人はこう言います。「持っている人はさらに与えられて豊かになり、持っていない人は、持っているものまで取り上げられる」
この話を聞いて、皆さんはどのように思いましたか? なんだか変だ、不公平だと思った人もいるのではないでしょうか。たくさんもらった人が増やすのは当たり前、少ししかもらわなかった人が増やせなかったのはもともと少しなんだから当たり前だと。私も初めて聞いた時、そう思って納得できませんでした。
タラントンが、私たちが持っている才能のことだとしたらどうでしょうか? 周りを見回してみると、私よりもっとタラントンをたくさんいただいて成果をあげていると思える人がいます。自分はそんなにタラントンを持っていないし、できなくて当たり前、もともと不公平だと思うことがあります。私もそう思って、自分にはできない、無理、と思うことが多くありました。小学校の頃は、ピアノが上手で運動が得意な弟と比べて、中高時代は、しっかりしている同級生と比べて、高校を卒業してすぐに修道会に入り、周りは10歳も20歳も大人だったり、自分の先生だった人もおり、その中で自分はダメと落ち込んで臆病になったり無理に背伸びしてみたりしました。皆さんはそのようなことはありませんか? 私は少ししかもらっていないから仕方がない、頭が悪いからできなくて当たり前とか思っている人はいませんか?
ところで、ほんの少しと思った1タラントンは、今のお金にするとどのくらいなのでしょう。本当に少しなのでしょうか。計算してみると、実はなんと1億円にもなるのです。 1億円は、2億、5億と比べると少ないかもしれませんが、決して「ほんの少し」ではありません。『1タラントンしか』でなく『1タラントンも』預かっているのです。タラントンは私たちが神様からいただいている賜物を表しています。 それぞれが預かっているタラントンは多様なので、誰がどれだけもらっていると測ったり、他と比べたりすることは意味がありません。比べられるとしても、それはごく一部分、数えられたり、目に見えたりする部分だけです。私たちは誰もがかなりのタラントンをいただいています。自分のタラントンを他と比べて土に埋めてしまうのでなく、自信をもって惜しみなく発揮しましょう。それが、自分を愛することでもあります。
今日はタラントンを個人が預かっている才能としてお話ししましたが、身近では家庭や学校も、より広くは、私たちが生きる環境や社会も、ある意味で私たちが神様から預かっているタラントンと言えるでしょう。このタラントンを無駄にしたり、大したことないと適当に扱ったり、どうにもできないと投げ出したりしていないか考えてみることも、このタラントンのたとえ話が私たちに問いかけていることではないかと思います。