2005年07月16日

「ぼうぼうどり」から5年が過ぎて

1978.7.16清心図書館報より

二番目に言いたいことしか 人には言えない
一番言いたいことが 言えないもどかしさに
耐えられないから 絵を書くのかもしれない 歌をうたうのかも知れない
それが言えるような気がして 人が恋しいのかも知れない

出典:『風の旅』星野富弘より

 この詩は群馬県で中学校の教師をしていて、クラブ活動中の事故で、手足の自由を失い、それ以後自宅で療養生活を続けている人によって書かれたものです。この詩は、私が去年まで続けていた学級通信に二回掲載されています。一回は1985年9月11日、そして、もう一回は1986年4月16日です。普通、学級通信というと、クラスの出来事とか、連絡事項とか、学校生活に関することが多いのですが、この通信は、自分の代弁者として存在していたように思います。したがって、先の詩を二回使った理由は、著者に対する同情とか尊敬からではなく、ただその時の自分の気持ちに一番近かったから使ったという以外に理由は.無かったのです。この詩の使い方に表されるように、今までの学級通信のファイルを読み返してみると、その時の気持ちをそのまま反映しているように感じてしまいます。

 私が学級通信を初めて出したのは1983年7月13日、この学校に最初に勤めて、高校一年生を担任した時です。赴任してから三か月過ぎた頃、自分の考え方と生徒の考え方が正面からぶつかる状況が続いたことがありました。その時、それをなんとか解決したい、自分を理解して欲しいという気持ちから一号・二号の学級通信をだしたのを今でも憶えています。しかし、結果として、自分を理解されるどころか、自分が書いた通信がゴミ箱に捨ててある状況、つまり、まったく価値を認めないという返事が返ってきたのです。何日もかけて自分の伝えたいこと書いたのに判ってもらえない。そして、自分自身も理解させる力がないこと痛切に感じました。その後、通信はしばらく出しませんでした。そして、再度三学期には、とにかく捨てられても良いから、自分も楽しめる、つまり、自分が楽しみながら得たものの一部を紹介していくことも含めて始めることにしました。その時、次の文をつけて出しました。
=この通信をだすことへの弁解=
 いままで二回〝ぼうぼうどりという通信をだしました。出した時の理由は、その時の自分が何かすべて自分が思うようにならない、なんとかしたい。そんな思いだったと思います。勝手と言えば勝手で、そのあげくに「もう、読まないから」といい意見を取り入れて止めてしまいました。自分自身の「どうせわかりっこないし」という気持ちも止めることを正当化していたと思います。でも、なにかしら、心の山奥の方で、これでいいのかなぁという気がして、やっぱり一度やろうと決めたことは最後まで試行錯誤しながらでもやらなければ、という気になったのです。担任がくじけているのに「生徒だけ、頑張れ!!」と言ってもやっぱり、どこかおかしい気がするし、これが最低の義務だと思うのです。
 それ以後、学級通信を出すことを自分に課すことになりました。それから、1984年度「ゆにこーん」、1985年度「ぼうぼうどり」、1986年度「風の谷」、1987年度「なあなあ」(途中中断)と続けてきました。一年間に多いときは200号、少ないときは28号、内容は、気にいった詩、問題を投げかけてくれた新聞記事、本からの抜粋が中心で、その他学級での出来事、自分の感想といったものでした。ここで、何故気にいった詩、新聞記事、本の抜粋を中心にしたかというと次のような自分の考え方があるからです。
普通、学校であたえる授業の教材・同和教育・性教育の資料にしても何かしらのかたちでまとめや感想を要求するわけですが、それがあると、どうしても〝やらされる″という負担感をもってしまう。だから、べつに意識しなくていい、つまり″使い捨て〟の考える材料として学級通信を出したかったと言うことがあるのです。
私の考えですが、それぞれの人が持っている感受性とか考え方の多くは、意識されないでなんとなく過ごした時間の中でつくられてくるような気がするのです。生徒についてもほんとうに影響を及ぼすのは、計画された○○のH・Rの時間や教師の一過性の説教ではなく、学校全体を流れる雰囲気だ思うのです。
 そして、私の読書遍歴は、その学級通信をだしていた五年間についてはその通信の中にすべて含まれてしまったのです。そして、自分の接してきた文章、詩などをどんどん紹介していきました。一つの文、一つの詩を具体的に決めていくとき、自分の気持ちが整理できるような気がして、作業を続けていきました。しかし、二年目に入り、毎日だすだけの資料が不足し出したのです。本当に納得したものがない状況になり、自分の読書が通信をだすためだけのものになってしまったの感じだしたのです。自分自身で蒔いた種ではありますが〝やらされる読書"としての負担を感じだしたのです。楽しんでだしていた時はまったく感じなかったものが、〝通信の為に読まなければ″という気持ちが出てくるとともに、読書そのものも嫌になってきたのですその年はとにかく200号だせましたが、次の年から毎日だすということが出来なくなりました。「とにかく、頑張りたい。」という気持ちでやってみましたが、結局6年目で止めました。
 この学級通信の経験の中で、長い間感じることのなかった〝やらされる読書"を久しぶりに感じてしまったわけです。〝やらされる読書″といわれれば思い出すのが、読書感想文というのがあります。私は読書感想文というのが昔から嫌いです。何故嫌いかというと一つには、評価する側の期待を知らず知らずのうちに意識しながら読書しなければならないこと、もう一つには、感想を書くことのための材料を探しながら読むことで、心から楽しんで読むという状態から程遠いものになってしまうということです。そして、それらのことが〝やらされる読書"という負担感をあたえているように思うのです。〝したい″と〝やらされる" の間には大きな壁があります。ある人は〝やらされる″ことが、きっかけとなって〝する〟ようになるといいます。でも私には、読書感想文を書くことによって本を読むことが好きになった人より、そのことによって、読書に負担感をもった人の方が多いような気がします(それは、特にいろんな本と出会う機会のある学校に通う時期に)。そして、身に付けたものは、あらゆる感想に、評価する大人の側にこた えるかのように肯定的な記述を盛り込むことです。私としては、もっと自由に本と付き合って、読みたくないときは読まなくていいから、気ながに、ゆっくりと、楽しむ読書を大切にして欲しいと思います。そのことによって人と人の関わりにもっと面白い面を与えてくれると思います。

投稿者: 秋山繁治 日時: 22:47|コメント (0)

『しかたなく』を繰り返す社会の中で

1990.7.16清心図書館報より

 原爆詩集の中に次のような詩があります。

花  近藤兼

房爆をおとした国がおとされた国の町の小高い岡の上に きれいな病院を建てました

「ゲンバクヲウケタ人ハ シラベテアゲマス エンリョナク来ナサイ」

それでも行かない人がいました
十年たっても行かない人がいました
今でも行かない人がいます

「シラベタカッタラ 自分ノ国ニオトセバイイノニ」

六十年は生えないだろうといわれた草も生え
花も咲くようになりました
人の心はそうはいきません

日本の原爆文学13より

 この詩が載っている原爆詩集は図書館にあります。あまり読まれた形跡はなく、真新しい姿のまま本棚に眠っていました。この詩を読んであなたはどのように思ったでしょうか、なにかしらの感情が、作者に対して起こった人は、共感する心を持った人だと思います。その共感のしかたは、原爆を体験した人、原爆の体験者をよく知っている人、原爆は体験しないけれど、他人の行為のために大切なものを失った経験のある人など、それぞれの状況で異なります。でも、共感する感性を持っているということは確かです。
 私の原爆についての思い出は、大学の時の下宿のお婆さんとの話の中にあります。私の父親が離職したり、事故をしたりして、いろいろなつらいことが続いたときに、下宿のお姿さんが次のような話をしてくださいました。「一生っていうのはいろいろなことがあるものだよ。実は本当の一人娘は、結婚してすぐに、夫が出兵してしまい、一人で山口へ疎開する途中、原爆投下直後の広島に通りかかり、被爆して闘病生活の後、死んでしまったんだよ。運が悪かったんだよ。今の娘は養女なんだよ。でも、よく今まで私を大切にしてくれたよ。今の娘にしても、運が悪いんだよ。父親は屋根仕事をしていて転落し、使っていたハサミが後から落ちてきて、道悪く腹に突き刺さり死んでしまったんだよ。一生の中にはいろいろ運の悪いことってあるものだよ。ある時期は苦しいことだらけかもしれない。でも、じっと辛抱していけば、いつかはいい時がくるよ。」という話でした。岡山で生まれ育った私にとって、唯一の身近な人の原爆の話です。
 この詩に出会った時、私は原爆を落とした国に対する作者の憎しみを感じました。自分以外の他者によって運命が不本意なものとされたという憎しみを感じたのです。でも、理解し感じとった部分と共感する部分は、必ずしも一致していなかったように思います。この作者の憎しみを、制限されて不本意な形でしか過ごせない自分自身の生活に対する憎しみに、重ね合わせて共感していたように思います。そして、自分らしく生きなければとか、生き方を圧迫するものには自分自身で拘って行動せねばという思いに自分を駆り立てていました。
 この詩に出会ってからもう約十年の年月が過ぎていきました。学校生活、予備校講師、そして高校教員として過ごしてきた生活の中で、今、改めて自分はどのような生さ方をしてきたのだろうかと考えると、ふと、不安がよぎります。とにかく、年月の流れの中で、一つのことに執着しないで、今まで登ってきた階段を自分のすぐ後ろからばっさりと切り放すことに慣れてしまっている自分を感じるのです。そして、現実を肯定することが、うまく生きて行く秘訣だと理屈をつけて、なるべく自分自身から切り放したところで、すべてのことを処理していこうとしている姿勢を感じてしまうのです。
 高校生だった頃、戦争の思い出を誇らしげにながながと話をする人が嫌いでした。それよりは、自分の戦場でのことを辛く一言も口にできない人が好きでした。「てがら」を主張するのも、「つらさ」を吐くのも、戦争を本当に自分の責任として受けとめているのなら、そう簡単に口を開けるものではないと思ったからです。
 今、生きている戦争体験者はどのように捉えているのでしょうか、戦争について、当時軍事訓練に参加した人へのアンケートがあります。参加した動機として、「半強制的」と答えている人が42.2%、「強制的」が29.1%で、あわせると71.3%です。つまり、大部分は自分の意志ではなく、いやいや参加したということになります。また、活動の感想については、「しかたがなかった」が41.9%、「つらかった」が25.3%、「いやだった」が13.8%にもなる。あわせると81%にもなります。つまり、ほとんどの人が戦争に参加させられ、しかたなく参加したというように考えているということです。ある人は、多くの人が積極的に参加したのでないことば幸いである、と言うかもしれません。しかし、「しかたがなかった」という答えに、自分の責任ではないとう意味も重ねられていると思うと恐ろしい気がします。世界を巻き込んだ戦争ですら、その起こした国の国民のほとんどが 「しかたがなかった」と考えているということです。その「しかたなく」 の延長線上に、日常生活に追われている人々のつくる現代社会の流れの方向 があるような気がします。いじめをしている集団の中では弱者をしかたなく殴り、多少の不正があっても相手が強者であればしかたなく従う、人の不幸に対してしかたなく見ない振りをする。すべてをしかたないところに封じ込めることを認める社会は責任を回避する社会です。戦争体験にしても、当時は自ら進んで参加したという意識をもつ自立した人間の集団であって初めて、悪かったという自覚や戦争を否定する姿勢が生まれるのです。同じ事柄であってもしかたなくではな、自分自身が、決意してしたことなら、悪いという自覚もこれからやらないという決意もできるわけです。そう思いながら、今の自分はどうかと考えると、不本意ながら社会の流れに同調して、「しかたなく」今のようになってしまった、と納得しようとしている自分を見つけてしまうわけです。高校生活の中でも、自分たちのやりたいことと、やっていいことには大きな差があります。だから、いろいろな「しかたなく」の部分が学校生活の中に存在します。受験勉強のためにとか、校則で決められているからとか、時間が無いからとか、いろんな理由があると思います。しかし、その「しかたなく」  の中に、大切な自分自身に対するこだわりまでしかたなく失ってしまうのはもったいないと思います。
 たくさんの「しかたなく」を体験した大人からの一つのお願いがあります。ときには、詩や小説を読み、人の苦しみや喜びを共感し、自分自身の生き方を大切にする心を失わないで欲しいものです。『試験にでる英単語』も『チャート式基礎解析』も受験のためという実用性を考えると、多くの時間を費やすのに意味があります。でも、実用性をすべてにしたら悲しすぎると思うのです。たまには、人間の生きざまの込められた詩や小説を読める心の余裕を大切にして欲しいと思います。
「絶望させる悲しい小説読むことから絶望は生まれません。鉄道の時刻表しか目にとまらない心に絶望が忍び寄っているのです。」

投稿者: 秋山繁治 日時: 22:36|コメント (0)

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